なぜ『海がきこえる』は“東京と高知”を描いたのか
『海がきこえる』は、高知という地方都市から始まり、東京での大学生活へと舞台を移していきます。
この地理的な移動は、単なる「引っ越し」ではなく、
“人間関係のあり方”や“自分の居場所”に対する意識の変化を描くための装置として機能しています。
地方と都会──
そこにあるのは、文化や価値観の違いだけではありません。
- 「どこで生きていくべきか」
- 「誰とどうつながるべきか」
こうした問いに直面する若者の姿を、『海がきこえる』はとても静かに、しかし確かに描いています。
本記事では、高知と東京の対比を通して、
作品が浮かび上がらせた“都会 vs 地方”の意識構造を深掘りしていきます。
地方・高知での人間関係──“顔が見える社会”の温かさと窮屈さ

『海がきこえる』の物語は、主人公・杜崎拓の故郷である高知から始まります。
この地方都市での暮らしは、東京とは対照的に、人との距離が近いという特徴があります。
学校でも、街でも、家庭でも──
「誰が何をしているか」がすぐに共有され、
噂や評価が一瞬で広がるような環境です。
地元の“つながり”が生む安心感
- 友人との深いつながり
- 授業中に冗談を交わすような親密な距離感
- 家族ぐるみの付き合いが残る地域性
こうした人間関係は、見守られているような安心感を生み出し、
青春を過ごす上での「土台」としての役割を果たしていました。
しかし、自由がきかないという“閉塞感”も
一方で、こうした密な人間関係は窮屈さも伴います。
- 「少し違う行動をすればすぐに目立つ」
- 「誰にどう思われているかが常に気になる」
- 「進路や価値観に“多数派”が強く影響する」
特に、都会志向の強い里伽子や、
繊細で内省的な拓にとっては、
地元での生活が「息苦しさ」を伴うものとして感じられていたのです。
高知という舞台は、
“あたたかくて優しいけれど、居場所にはなりきれない”
そんな矛盾した人間関係の空気を絶妙に描いています。
東京という場所の描写──自由で冷たい“匿名性の街”

物語の後半、舞台は高知から東京へと移ります。
拓は大学進学を機に上京し、まったく異なる価値観と人間関係に直面します。
東京は、高知とは対照的な“匿名性”に満ちた都市です。
誰が誰で、どこから来て、何を考えているかは誰も知らない。
それが自由を生む一方で、孤独も引き寄せていきます。
誰からも干渉されない自由
- 服装も、行動も、思考も「自分で決められる」
- 誰も噂話をしない
- 過去の自分をリセットできる
拓にとって、こうした環境は最初こそ魅力的に映ります。
干渉されず、自分を定義し直せる場所として、東京は開放感に満ちていたのです。
でも、誰も見ていない孤独
しかしその自由の裏側には、深い孤独が潜んでいました。
- 授業を受けても、誰とも言葉を交わさない
- 同じ部屋にいても、心は遠い
- 高知にいたころの“つながり”が消えていく
誰にも縛られない代わりに、誰にも必要とされない感覚。
それは拓にとって、想像以上に重たいものでした。
高知では「窮屈」と思っていた人間関係が、
東京では「恋しい」と感じられる──
『海がきこえる』は、そんな意識の変化を繊細に描いています。
里伽子の“東京志向”とその裏にある葛藤

里伽子は物語の中で、明確に「高知を離れたい」という意志を見せる数少ないキャラクターです。
彼女の中には、地方に留まることへの強い拒絶感と、東京という都会へのあこがれが混在しています。
その姿勢は一見、「高飛車」「わがまま」と映ることもありますが、
その背景には、彼女が抱える家庭の問題と心の孤独が深く関係しているのです。
東京は“逃げ場”だったのか
- 自分を縛る家族の視線
- 母親との複雑な関係
- 地元の人間関係に対する息苦しさ
こうした要素が積み重なり、里伽子にとって東京は理想郷であり、逃避先でもありました。
都会には、自分を知る人がいない。
だからこそ「自分らしく生きられる」という幻想を抱いていたのかもしれません。
けれど、心の底では“つながり”を求めていた
そんな里伽子の心の揺れは、作中のさまざまな場面に現れています。
- 拓との微妙な距離感
- 高知を訪れた後の態度の変化
- 本当の気持ちを言葉にできない不器用さ
彼女は「東京に行きたい」と言いながらも、
誰かに理解されたい、寄り添ってほしいという想いを捨てきれなかったのです。
里伽子の葛藤は、“都会を目指すこと”そのものが幸せではないことを示唆しています。
本当の問題は「どこにいるか」ではなく、「どこで自分らしくいられるか」なのだと、彼女は無意識のうちに問いかけているのかもしれません。
拓が再び“高知”に向き合った理由

物語のラストで、拓は大学生活を送る東京から離れ、再び高知へと戻ります。
それは単なる帰省ではなく、心の奥に置き去りにしていた記憶と向き合うための旅でした。
高校時代の仲間との再会、地元の風景、そして里伽子の痕跡──
それらすべてが、彼にとって“かつての自分”を再発見させる装置となります。
同窓会がきっかけの“心の再訪”
- 誘われて渋々参加した同窓会
- 変わらぬ友人たちの顔ぶれ
- 地元に残った人・出て行った人、それぞれの選択
そこには、時間だけが進んだ高知がありました。
しかし、誰かが東京に行き、誰かが高知に残る──
その違いに優劣はなく、ただの人生の分岐であることに気づいていきます。
東京で見失いかけた“自分”との再会
都会での生活の中で、拓はどこかで自分を見失いかけていました。
- 何を目指しているのか分からない大学生活
- 薄く続く人間関係
- 心に残っていた里伽子の存在
そんなときに再訪した高知は、
彼にとって「原点」とも言える場所だったのです。
そしてそこで改めて感じたのは、
過去と向き合わなければ、未来にも進めないということでした。
拓は“都会の自由”と“地元のつながり”の間で揺れながらも、
最終的には自分にとって何が大切かを見極める覚悟を持ち始めます。
それは、東京か高知かという二項対立ではなく、
「どこであっても、自分が自分でいられる場所を見つけること」への第一歩だったのです。
『海がきこえる』が描いた“都会 vs 地方”の本質とは?

『海がきこえる』は、単に「地方と都会の違い」を描いた作品ではありません。
本作が本当に描こうとしたのは、
人と人の距離感、そして自分自身との向き合い方でした。
場所の問題ではなく、心の在り方の問題
- 地方には、つながりの中で生まれるぬくもりと窮屈さがある
- 都会には、自由な選択肢と孤独がある
どちらが優れているわけでもなく、
どちらも“生きづらさ”と“救い”の両面を抱えているのです。
だからこそ大切なのは、
「どこで生きるか」ではなく、「どう生きたいか」なのだと、
作品は静かに伝えています。
若者が抱える“居場所の不確かさ”
拓も、里伽子も、登場人物たちはみな、
自分の居場所や進むべき道を探しています。
彼らの迷いや葛藤は、
まさに現代の若者──特に地方出身者が上京する際に感じる不安や期待と重なります。
- 「地元にいる自分」と「都会での自分」は同じなのか?
- 誰にも頼らずに生きていけるのか?
- 本当に帰る場所はどこなのか?
そうした普遍的な問いが、作品全体を貫いているのです。
『海がきこえる』は、
派手な事件も、わかりやすい結末もありません。
けれど、だからこそリアルに心に刺さる。
地方と都会の“対比”を通して、
私たちに問いかけてくるのは、
「あなたにとっての本当の居場所はどこですか?」という、
とてもシンプルで、深いテーマなのです。
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