信じる力と想像力の関係性
1. 導入|“見える人”と“見えない人”の違いとは?
『となりのトトロ』における最も不思議な設定の一つが、
トトロは誰にでも“見える存在”ではないということです。
メイは森の奥で最初にトトロと出会い、サツキも後に体験を共有します。
しかし、家族や大人たちはその存在を知らないまま物語が進行します。
物語内で誰も「トトロなんてウソだ」と断定するわけではないものの、
トトロの存在はあくまで姉妹の“主観”の中で語られていきます。
これは単なる“ファンタジー”表現ではなく、
宮崎駿監督が“子どもと大人の境界線”を描いた象徴的な仕掛けです。
2. 子どもにしか見えない世界──“想像力”の領域

なぜトトロはメイとサツキにしか見えなかったのか?
その答えの鍵は、「想像力」にあるのかもしれません。
- 子どもは日常の中で空想と現実を自由に行き来できる
- “まだ言葉で定義されないもの”を受け入れる余地がある
- トトロという存在は、その柔らかさの中に“棲んでいる”
つまり、トトロは“どこかにいる”存在ではなく、
「心の中に住まう自然への感受性」そのものなのかもしれません。
だからこそ、大人には見えなくなってしまう。
トトロは“信じられる人”の前にだけ現れる、“境界を越えた存在”なのです。
3. 信じることで“存在”になる──想像と現実の境界線

物語には、他にも“不思議な存在”が登場します。
たとえば「ネコバス」。
- サツキとメイはネコバスに乗って移動し、母の病院へ
- しかしその存在は物語の中で“誰にも確認されない”
- 最後、病院の窓辺に置かれたトウモロコシだけが、“事実”として残る
ここで面白いのは、ネコバスもまた“信じることで存在する”という構造。
想像力は現実を変えうる力を持ち、
信じた者の前では“見えないもの”が“見えるもの”になる。
宮崎駿はこうした演出を通じて、
想像=嘘 ではなく、想像=真実をつくる原動力という価値観を描いています。
4. 大人もかつては“見えていた”存在?

作中で印象的なセリフがあります。
メイとサツキの世話をする“おばあちゃん”がこう言うのです:
「昔、わたしも見たような気がする」
この一言が示唆するのは、
大人もかつては“トトロが見える側”だったという可能性です。
- 大人になる過程で“見えなくなる”こと
- けれど、忘れてしまっただけで、確かに“いた”こと
- トトロは、子ども時代の記憶と感性の象徴
宮崎駿作品ではたびたび「かつて見えたもの」「忘れたもの」が描かれます。
トトロは、その最たる例なのかもしれません。
5. まとめ|“見える・見えない”は“心の在り方”
結局、トトロは“本当にいた”のでしょうか?
それとも“空想”にすぎないのでしょうか?
本作はあえてその問いに答えません。
だからこそ、私たちは考えるのです。
- 「自分は今、トトロを“信じられる心”を持っているだろうか?」
- 「見ようとすれば、まだ“どこか”にいるのではないか?」
“見える・見えない”は、物理的な違いではなく、心の在り方の問題。
それは“信じる力”と“想像力”という、人間にとって最も根源的な力に関わっているのです。
トトロは、あなたのすぐそばにいる。
見えるかどうかは、あなたの“心”しだい──。
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