はじめに
『おもひでぽろぽろ』と『火垂るの墓』。
どちらも高畑勲監督の代表作であり、
“過去の出来事”を回想形式で描いているという点で、
共通する表現構造を持った作品です。
しかし――
同じ「過去を語る」スタイルでありながら、
その語りの温度感、視点、目的には決定的な違いがあります。
- 『おもひでぽろぽろ』は、“記憶”を通じて「今」と向き合う物語
- 『火垂るの墓』は、“記録”を通じて「過去」に決着をつける物語
本記事では、この2作に共通する「語りの手法」に注目しながら、
それぞれが何を描こうとし、どのように観客に届くのかを比較し、
高畑勲という作家の多面性に迫っていきます。
『おもひでぽろぽろ』の回想形式とは

本作は、30歳の主人公・タエ子が、
山形への田舎滞在をきっかけに
“小学5年生の頃の思い出”を振り返るという形で進行します。
記憶と現在が交錯する構造
- 現在のタエ子が、ふとした瞬間に昔を思い出す
- 思い出の中の出来事が、今の自分に影響を与える
- ラストでは“過去の自分たち”が現在の彼女を見送る演出も
このように、過去と現在が曖昧に溶け合いながら、
「記憶」と「今」を並行して描く構造が大きな特徴です。
回想は“未来”へ向かう手段
この物語で描かれる過去は、
単なる懐かしさではなく、「今の自分を見つめ直すための鏡」として機能しています。
記憶をたどることは、
- 自分の価値観の源を探ること
- 忘れていた感情に触れること
- 未来の選択に自信を持つための準備
つまり、『おもひでぽろぽろ』の回想は、
“過去を語ること=今を生きること”に直結しているのです。
『火垂るの墓』の語りとは

『火垂るの墓』もまた、冒頭で語られるセリフにあるように
「僕は死んだ」という視点から始まる“回想形式”の物語です。
語り手はすでに「この世の人ではない」
本作の主人公・清太は、物語開始時点ですでに亡くなっており、
観客は彼の視点を通して、
- 戦時中の暮らし
- 節子との日々
- 社会や家族との断絶
などを追体験することになります。
回想は“終わった出来事”として語られる
『おもひでぽろぽろ』との最大の違いは、
回想の中に“未来”が存在しないことです。
- 語り手はすでに命を終えており
- 物語は「どうしてこうなったのか」をたどるもの
つまり、『火垂るの墓』の語りは“終焉を証明するための記録”ともいえるのです。
この視点が作品に強い悲しみと静けさを与えると同時に、
観客に「どうすればよかったのか?」という問いを投げかけます。
語りの温度差と距離感の違い

同じ“回想形式”で描かれた2つの作品ですが、
その語り口には明確な温度差と距離感の違いがあります。
『おもひでぽろぽろ』は「今も続く」記憶
- タエ子の語りは、生きている“今”とつながっている
- 記憶は曖昧で、揺れていて、現在の気持ちに影響を与えている
- 回想は、現在進行形の感情の一部として描かれる
つまり、観客はタエ子と“並走”するように記憶をたどっていくのです。
『火垂るの墓』は「すでに閉じた」記憶
- 清太の語りは、すでに終わった人生の“証言”として語られる
- 感情は過去に固定されており、変化することがない
- 観客は、あくまで“語り終えた後”に触れている感覚
こちらは、語り手との間に“静かな距離”が存在しているのが特徴です。
この語りの距離感の違いが、
- 共感の仕方
- 感情の乗せ方
- 観終わったあとの“余韻”
に大きく影響しているのです。
感情の伝え方と観客への問いかけ

どちらの作品も強く感情に訴えかけてきますが、
その“伝え方”には本質的な違いがあります。
『おもひでぽろぽろ』は“共に考える”感情設計
- タエ子の迷いや記憶に寄り添いながら、
観る者も「自分の記憶」に思いを馳せる - 答えは明示されず、“共鳴”が重視される
- 感動よりも、“気づき”や“内省”が余韻として残る
つまり、観客の内面を静かに揺らすような設計です。
『火垂るの墓』は“静かに突きつける”感情設計
- 清太と節子の悲劇は、感情移入しやすい構造で描かれ
- その結末は避けられず、観る者に強い無力感を残す
- 涙を誘うのではなく、「これは他人事ではない」と考えさせる
こちらは、観客に“感情の責任”を委ねるような語りとも言えます。
高畑勲監督はどちらの作品でも
“泣かせる”のではなく、
“考えさせる”ための感情設計をしているのです。
その違いは、語りの構造と演出の意図に如実に表れています。
まとめ
『おもひでぽろぽろ』と『火垂るの墓』。
どちらも“過去を語る”という共通の構造を持ちながら、
まったく異なる感情とメッセージを私たちに届けてくれる作品です。
「記憶」と「記録」の違い
- 『おもひでぽろぽろ』は、“今”とつながる「生きている記憶」
- 『火垂るの墓』は、“終わった過去”としての「語り終えた記録」
この違いが、語りの温度や余韻に大きな差を生み出しています。
高畑勲の演出の幅の広さ
どちらの作品にも共通するのは、
感情を強く押しつけない、観客に委ねる演出姿勢です。
そのうえで、
- “記憶をたどることで今を照らす”
- “過去を語ることで社会に問いを投げる”
という、語りの目的そのものを使い分けている巧みさが光ります。
語り方ひとつで、物語はここまで違う顔を見せる。
そして、そのどちらもが、
高畑勲という監督の“人間を見るまなざし”の深さを物語っているのです。
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